カテゴリ:世界の歴史( 4 )

 

ヒトラー・ドイツはなぜ戦ったのか?

第一次世界大戦は、言うまでも無く、アーリア人支配による国家

体制を解体して、ユダヤ人主導型の政権を樹立することを主眼と

する戦争であった。



また国際連盟の創設、金本位制の確立、ユダヤ人へのパレスチナ

提供という目的もあった。



むろん、ユダヤ人の背後にはフリーメーソンがあり、その奥には

イルミナティがあり、そうした動きすべてが「悪の意志」の仕組

みであったと見るべきである。



そして、この混乱に乗じて帝政ロシアには革命が起こり、ユダヤ

人の宿願であったツアー体制の倒壊は成功し、ボルシェビキ思想

を掲げるレーニンによってユダヤ人政権が打ち立てられた。



注)ロシア白軍の兵士は全員プロトコルを配布されていた。



戦争終結後の1919年、パリ和平会議がフランス外務省で開か

れたが、ここに列席した主要メンバーは、



議長クレマンソー仏首相、ウィルソン米大統領、ロイドジョージ

英首相、オルランド伊首相らであるけれども、



彼らは全員フリーメーソン結社員であった。



そのため、パリ平和会議は、別名「コーシャ会議」(コーシャは

ユダヤ教の戒律に従った食事)と呼ばれたほどである。



そして敗戦国ドイツは、ベルサイユ条約により多額の賠償金を取

られ、軍備を著しく制限させられた。



(2009年の現在も第一次世界大戦の賠償金を支払い中である)



国内には、ユダヤ人政権が誕生し、ワイマール憲法による新体制

がとられた。しかし世界大恐慌の追い討ちも加わり、超インフレ

の波がドイツ経済を襲った。



マルクの価値は無きも同然になり、ドイツ人は士気喪失となる。



そこに忽然と現われたのが、「シオンの議定書」だった。



これを読んだドイツ人は、自分たちを苦しめているものの正体が

わかったと思った。ドイツを蹂躙する、ユダヤ人の陰謀に対して

立ち上がり、祖国を守ろうという機運が高まっていく。



そこに台頭したのがナチズムである。



「議定書」は独語版の初版が発行されるや12万部が売れ、初版

からヒトラーが政権につく1933年までの13年間に33版が

印刷されるほどの売れ行きであった。



議定書は、ユダヤ人の作ではない。

その意味では、明らかに偽書である。



しかし問題は、そこに記されている内容なのだ。



世界の近代史を注意深く考察するほど、まさに議定書に示された

通りに動いていることがわかる。



その一言一句は、現在においても十分に研究の価値がある。

その意味において、「議定書」は本物なのである。



ドイツの人々の間には、ボルシェビキがドイツの混乱した国情を

利用して革命を仕掛けてくるのではないかと恐怖が広がった。



1937年、ハインリッヒ・ヒムラーは講演の中で、

「ナチスの敵は、ユダヤ人と、フリーメーソンが指揮をする国際

ボルシェビキ思想である」と激を飛ばした。



1939年、ヨーゼフ・ゲッペルスは、

「ドイツの諸問題は、国際ユダヤ人、国際フリーメーソン主義、

及び国際マルクス主義のせいである」と述べた。



そして、ヒトラーは「わが闘争」のなかで、こう書いている。



「ユダヤ人はフリーメーソンの手を借りて、支配階級を操り、

マスコミを通じて下層階級を愚民化している。



資本主義、自由主義、民主主義は、ブルジョワジーをして貴族

階級を打倒せしめ、プロレタリアートをしてブルジョワジーを

打倒せしめるために、ユダヤ人が発明した道具である。



これが完了すると、次にボルシェビズムが持ち込まれ、

ユダヤ人が政権の座につくのである。」-と。




こうして、ヒトラー率いるナチス・ドイツは、国民の絶大なる

支持を獲得しつつ、ユダヤパワーへの反撃を開始するのである。



ヒトラーは、今なお「絶対悪」のレッテルが貼られている。

アメリカ映画には、必ず悪の権化として描かれている。



しかし、これはユダヤ側の宣伝が功を奏しているためである。



どうしてヒトラーは、憔悴しきっていたドイツ国民に希望の光

を蘇らせ、あそこまで熱烈に発奮させることができたのか。



多くの人心を集めることのできた力は何であったのか。



ドイツ国民は、極悪人や強靭を国家を救う英雄と見まがうほど

愚かではない。



ナチズムをいたずらに賛美することは、断じて正しくない。



しかし、何もかも「悪」であったとして全ての問題を片付けて

しまう姿勢には問題があるのではないだろうか。



以上は、徳間書店超知シリーズ

作者:中矢伸一、魂の叡智日月神示より。 

 


 


 


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by toranokodomo | 2014-01-25 11:27 | 世界の歴史  

「人類の叡智」(再掲)

大昔の神々の集いとは、こんなものだったろうと思う。


人類の叡智とは、話し合いのなかにあったろうと思う。


 


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蛮勇という名の殺人者に堕ちた人類に未来はあるか。


わたしはそうは思えない。類は友を呼ぶだけだろう。


 


もういちど、知己と集い話しをしよう。


酒を酌み交わし、幸せに満ち満ちた人生を語ろう。


 


そして、ご先祖様へ手を合わせて祈りたい。


祈る、これこそが「人類の希望」の始まりだと信じてる。


 


記 : とらのこども


 


 


PHOTO:画像ランキングより


http://tumblrport.com/jp/articlelist.php?format=photo&mode=rank


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by toranokodomo | 2014-01-13 21:38 | 世界の歴史  

歴史散歩 「石油の世紀と、日本の石油」

宮崎正弘の国際ニュースより:http://www.melma.com/backnumber_45206_4696658/



山下喜斎と石油に関することです。これは、以前宮崎正弘氏のメルマガの読者の声に「ST生、神奈川」氏が江戸時代の日本での石油利用に関して書かれたことがありました。

その内容に補足して以下に記します。



(1)日本書紀に天智7年(西暦668年)新潟地方から「燃ゆる水」「燃ゆる土」が朝廷に献上されたとあります。この「燃ゆる水」は石油、「燃ゆる土」は天然アスファルトのことだと推定されています。おそらく英語でいうseep oilという掘らなくても地面から湧き出て、水溜りにアスファルト状のものとともに原油が溜まっているところが新潟にあったのでしょう。これを江戸時代には「くそうず」つまり臭い水とよんでいました。



(2)慶長13年(1608年)には、越後柄目木村(現在の新潟市秋葉区内)の真柄仁兵衛貞賢という人物が、油田を発見し、慶長18年(1613年)には蘭引(らんびき)で灯油をつくったという記録があります。新発田藩の許可を得て元和元年(1615年)には、油井をうがちこれを沸壺(にいつぼ)と読んだとあります。この油井は明治30年頃まで盛んに石油を出していたそうです。ところで、「蘭引」の語源はアラビア語の「アランビック」だといわれています。アランビックは蒸留酒や錬金術に用いられた蒸留器のことでした。それが江戸時代に日本に伝わって、水を蒸留して薬用に使ったり、酒類の製造や花の抽出液を取り出して化粧水をつくったりするのに用いられました。



(3)嘉永3年(1850年)頃に、新潟の蘭方医山下喜斎が原油から灯油を製造し、薬用として使ったとつたえられています。



(4)西村毅一氏が蘭方医山下喜斎の指導の下石油精製に成功し、嘉永5年(1852年)に柏原近くの半田村の阿部新左衛門氏(西村氏の兄)の土地に石油精製所を造りました。



ところが、この日本における石油利用の歴史は欧米では無視されているようです。欧米で認知されている近代の(古代メソポタミア文明等の石油利用は除く)石油利用は以下のとおりです。



(1)1847年に瀝青という石炭の一種から滲み出た原油から灯油を作る技術が英国で技師ジェイムズ・ヤング氏によって開発され、翌年特許をとり、この技術が米国に伝わりました。(渡辺氏の本では1850年に米国で特許取得とあります)。

灯油をベースにした照明、暖房の鯨油に対する優位性が知られました。



(2)ポーランドでLukasiewicz氏が灯油ランプの発明(1853年)し、精油法を開発し精油所を建設(1954年)しました。これが、西洋では世界初の近代的石油精製所といわれているものです。



(3)ルーマニアのPloestiで世界で初の大規模な石油精製所が米国資本の投資によって、1856年に建造されました。



この論を書き進めるうちにペリーの艦隊の蒸気船であるサスケハナ号の名前のもとになった、サスケハナ川のほとりに住んでいた頃を懐かしく思い出しました。Tristate Areaと呼ばれるニューヨーク州、ペンシルバニア州、オハイオ州の境の地域です。



その時代の日々が今の私の中に生きているように、西村毅一氏が半田村に造った世界初の石油精製所は、有為曲折経てを現在の柏崎製油所となり、Ignacy Lukasiewicz氏がポーランドに造った製油所は大成功し、氏は当時のポーランドで著名な慈善家として知られていました。



ルーマニアに米国資本により造られた製油所は、その後大発展し第二次大戦では、ドイツ軍と連合軍の間で争奪戦が繰り広げられました。19世紀末から20世紀の欧米を動かしてきた主軸は石油を巡るグレートゲームとも言えるように思います。



さらに20世紀後半から21世紀においても、少なくとも当面は世界を動かしている主軸ともいえます。その大きな流れの鍵を開けたのが、謎の蘭方医・山下喜斎であり、そこから生まれた世界初の石油精製工場でした。その技術の存在が長崎出島を通して米国に知られ目ざとい人の眼を日本に向けさせ、さらにポーランドのLukasiewicz氏がそれからヒントを得て自身も石油精製工場を造ったとのかもしれないと思えてきます。



だからこそ、無視せざるを得ないのかもしれません。しかし、証拠を見つけ出すことはたとえ真実であったとしても非常に難しいことでしょう。



ルーマニアでの製油所建設にいたるまでと猛烈な勢いで進んでいったということの背景には、ことの重要性を明確に知っていて、しかも国家と資本を動かすことの出来る人物の存在を考えるのが自然です。当時、英国、米国が鯨油をとるためにそれぞれ年間100万尾とも言われる大量の鯨を捕殺していたことを考えると、鯨油代替物の市場規模の大きさは目ざとい人間には自明のことでした。しかも照明にも暖房にも灯油の方が優れていました。さらに石油から精製した重油は当時蒸気船の遠洋航海に必須であった石炭の代替物ともなります。



石油は単位重量あたりのエネルギーが石炭より高く、液体であるために輸送もより容易です。そう考えるとその人物にとって、Lukasiewicz氏は世界初の精油所の開拓者としてうってつけの人間です。化学の知識を持ち、政治運動に打ち込んで投獄され、大学も卒業できず一種のあぶれ者でした。なにより、英国やフランスのような科学技術、産業技術が進んだ軍事大国ではありませんでした。石油精製技術によりポーランドが軍事的脅威となる心配はありませんでした。ただしそこから事業で大をなし、富を慈善に大盤振る舞いしたことは立派です。



こう当時の状況を分析すると、ポーランドの精油所建設からの2年後ルーマニアで米国資本による石油精製所が造られたのも納得がいきます。その後、1860年代に米国における石油精製産業が、南北戦争終結後、北部資本により脱兎のごとく広がっていったのも頷けます。



油田の多くは敗戦で疲弊した南部にありました。ただし米国初の油田開削は、安政6年(1959年)にドレークがペンシルバニア州タイタスビルで発見し、おこなったものでした。



渡辺氏の日本対シナ前進基地説には、その後起きたことと不整合な点があります。

まず、米国のシナへの投資が活発化したのは、第一次世界大戦終了以降でした。そんな先のことのために嘉永6年(1953年)にペリー提督を派遣する必要があったのでしょうか。



19世紀後半に米国のシナへの麻薬輸出も大きな規模であったとはとても思えません。当時の麻薬の主産地は英国領であり、英国資本との競争に勝てるとはとても思えません。そんな不利な戦いに挑むより、米国(綿花)→英国(綿製品)→英領インド(麻薬)→シナ(銀、茶)→英国経由米国が利益回収というループを円滑に回す方がはるかに米国資本にとっても得だからです。

そして20世紀になって、このループは米国資本にとってさらに有利になりました。



ボーア戦争において大量の英国債券を買い込んだ米国の銀行は英国勝利によって大もうけしただけでなく、米国は純債権国となりドルは世界基軸通貨となりました。



また米国の投資家が英国企業に多額の投資を行なうことにより、よりストレートに言えば、戦争で疲弊した英国の企業株を安値で買いあさることにより、上記のループで英国企業が儲けたお金が米国資本の懐に転がり込むようになりました。



さらに石油が蒸気船の燃料として使われるようになると、海上輸送単価が大きく下がりました。

結果、それ以前には輸送費が高くて米国からヨーロッパへ輸出できなかった小麦が大量に輸出されるようになり、その結果、ウクライナの小麦が競争に負け、領地の小麦生産に経済的基盤を置いていたロシアの貴族が没落しました。これが、ロシア革命成功の一因となりました。



1927年のオイルメージャーによるアクアキャナリー協約で世界市場における石油の市場価格は、油田のある場所に関係なく米国テキサス州での受け渡し価格を基準としてテキサスからの距離に比例した輸送料を上乗せすることに決められました。



つまりジャヴァと取れた石油ですらアジアではヨーロッパより高い価格が設定されました。

このことにより東アジアにおける石油価格は最高になり東アジア諸国民からお金をふんだくる構造ができました。1934年米国連邦準備銀行法改訂により、ドルは金に対して大幅に値下げされて金兌換となりました。その直前の1年間で1万5千トンの金を米国が輸入したことが米国商務省の統計でわかります。つまり米国に金を輸出した連中と米国で金を輸入した連中は大もうけしました。かれらが事前にドルが大幅な安値で金兌換となることを知らずにそんなことをしたとは到底考えられません。だれがそんな大量の金を動かすだけの資金を持っていたのでしょうか。

そんなことの出来る連中は当時世界にあるひとつのグループの人たちだけでした。



ただし、これらは皆結果論に過ぎないともいえます。しかし、渡辺説も自説に都合のよい事実を集めただけだともいえます。ペリー来航に際して動いた人たちの中には、いろいろな意見、利害関係の人たちがいたはずです。そう考えれば渡辺氏の説も私の仮説も玉葱の何枚もある皮の中の特定の何枚目かだけを取り出して、これが一番重要な皮だといっているように思われます。ただ何枚目かが違うだけです。それなら、結果としての歴史により適合する結果論の方がよいと考えます。ペリーを派遣した人物が、もし、当時の世界経済を的確に把握していたら、そして日本での石油精製とその生成物の利用状況を知っていたら、おそらく恐れおののいて、眠れぬ夜をすごしていたでしょう。



この技術が英国の手に落ちたら、そして当時既にseep oilの存在が知られていたルーマニアと中欧地域に英国の支配が行き渡ったら? 日本におけるseep oil資源が新潟だけでなく全国に広がっていて、日本に英邁な君主と、それを支える有能な群臣がいて、あの技術を活用したら?

しかしペリー来航の嘉永6年(1853年)には、Lukasiewicz氏が灯油ランプを実用化し、再来航した安政1年(1854年)には、ポーランドに石油精製所ができました。



また当時、新発田や柏崎近辺にあった、seep oilの油田地帯も規模が小さく、石油産業として大きく育つ見込みがないと見切れていたのではないのでしょうか。それだからこそそれ以降の米国政府の対日通商交渉が熱意のないゆっくりとしたものになったのではないのでしょうか。

結果論から見るとこちらのシナリオが真実らしく思えてきます。



19世紀半ばから現在に至るまでの160年間を鑑みると、そのうねりはまさに石油争奪と利用技術のグレートゲームでした。そして、これからどう生きていくか、また日本という国をどの方向に進めていくかをの回答を歴史から学ぶには、ペリー来航で米国の指導層の意図が何であったかより、歴史のうねりが、そして流れがどうであったかの方がはるかに重大であると考えます。

(ST生、千葉)



(宮崎正弘のコメント)ロックフェラーは石油生産、精製、運搬そして流通を握り、冨を独占した。その結果、アメリカに独占禁止法が生まれ、適用され、ロックフェラー帝国は、原油生産、精製、運輸、流通と分野別に分社化され、鉄道は独立し、そしてほかの石油会社も生まれ、メジャーは競合しあい、やがてOPECができて振り出しに戻り、市場優先主義が生まれ、そこへ投機資金が入り、グレートゲームは姿を変えてしまった。ところで話を飛ばしますが、アメリカの法律を金科玉条のごとくして、独占禁止法の「精神」が重要と実にみみっちぃ分野にも独禁法を適用させる日本の法律業界。その矮小な姿勢、その法律運用と解釈も度し難いと思います。



以上は、宮崎正弘の国際ニュースより:http://www.melma.com/backnumber_45206_4696658/



  というわけで、幕末にペリーが日本へやってきたのは、石油権益確保のため

  だったのかもしれません。さてさて、歴史の真実はどうなんでしょう。

  興味深々のお題ではあります。

  記:とらのこども google_ad_section_end(name=s1) entryBottom


 


 


 


、メタン、ハイドレード


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by toranokodomo | 2013-10-27 14:46 | 世界の歴史  

リビア カダフィ大佐の評価

宮崎正弘のメルマガの読者のコメント↓

皆様、ぜひご覧ください。


 


(読者の声2)リビアのカダフィ大佐について、日本で聞かれるのはほとんど欧米の

論調ばかりですが、わずか数%だった識字率を男子90%以上、女子も70%へ引き

上げ、女性の社会進出にも力を入れるなどアラブ社会では革新派といえます。

こちらのブログにカダフィ大佐の功績がまとめられています。


http://blog.livedoor.jp/toshiharuyamamoto128/archives/65671198.html

そのなかから抜粋します。


(引用始め) 「カダフィの功績(1)多民族国家でまとまらなかったリビアを、独裁

体制とはいえ長期的に安定化させた。(2)王制を打倒。形式的とはいえ直接民主制

の導入。(3)石油産業の国営化による収益で国民に厚い福祉。教育・医療など無料。

経済も含んだ統計指標で開発度がアフリカでトップクラス。(4)女性の教育を支援


カダフィ大佐によるリビアの統治。(1)建前上、代議員が存在せず、直接、国民の

声を政治に反映させるとする「直接民主制」の国家を建設。(2)40年以上の治世

で、王政時代から顕著だったとされる(リビア国内での)東西対立を押さえ込み、

(多民族国家の)国民を「リビア人」として統合してきた。(中学時代の教科書でリ

ビアの首都がトリポリ・ベンガジと二つあるのが不思議でした)


カダフィによる、リビア国民への『厚い福祉』。教育・医療・国が運営する各種サー

ビスは、ほとんどが無料だった。これは、国営化した石油産業からの莫大な収益による。

このお蔭で、アフリカ諸国の中で、リビア国民の就学年数・平均寿命・一人当たり

GDPなどの統計指標は、全てトップクラスだった。


リビア(社会主義人民リビア・アラブ国)。人間開発指数(HDI、UNDP,20

10年)は、169か国中53位で、アフリカの中ではトップクラス。平均寿命が

74.5歳と先進国並み。一人当たりGDPも年170万円で、アフリカにしては

異様に高い。問題は平均教育期間が7.3年(日本は12年)カダフィを支持する声。


アメリカ在住アラブ系女性の新聞投書。「反カダフィ勢力がカダフィ政権を打倒する

ことに反対しているのはリビアの女性たち」。カダフィが負けると昔のイスラム教の

民族衣装に戻ることを懸念。『アバヤ』はイスラム文化圏の女性の伝統的民族衣装で

全身を黒色の布で被うスタイル。


リビアでは女性の方が男性よりも高等教育の奨学金制度を利用。多くのリビア女性が

科学者、大学教授、弁護士、医師、政府職員になっている。


カダフィ政府は一貫して女性がその生き方を自由に選べるような政策。イスラム教の

導師の中にはこの政策に反対する者もいたが政府はその声を抑制」

(引用終わり)




上記の評価をサウジアラビアと比較するのも面白いかと思います。

サウジでは2008年に女性専用大学の起工式が行われたようですが、リビア・イラク・

イランでは女性の高等教育は当たり前。サウジではファイサル国王当時は抑えられて

いた宗教保守勢力、イラン革命とソ連のアフガン侵攻に対抗する形で宗教保守勢力の

活動がおおっぴらに認められるようになり、パキスタンやアフガンの宗教的過激派へ

の資金援助、サウジ国内では女性の公職追放といった事態に至ります。


サウド家の支配が磐石かといえばそうでもなく、サウジ国内の多くの部族長(豪族)は

金で懐柔するしかない。国王の妻たちの門閥が政治に介入してくるあたり、韓国歴史

ドラマのようでもあります。カダフィ大佐が「アラブの狂犬」といわれたのも、アラ

ブ流の大ぼら吹きの表現がそのまま翻訳されたためでしょうか。エジプトのナセル、

イラクのフセイン、みなよく似た表現です。東アジアでも北朝鮮など年中、戦争を

叫んでいますが誰も相手にしません。


1967年の六日間戦争でもナセルの勇ましい叫びとは裏腹、シナイ半島のエジプト軍は

水の備蓄もなく、イエメン派遣軍を呼び戻すこともしなかったあたり、アラブ流の

はったりが本当の戦争につながってしまったのでしょうか。アメリカ在住のアラブ系

女性の懸念、「カダフィが負けると、昔のイスラム教の民族衣装に戻る」というのは

真実をついているのかもしれません。


民主政治の土壌のないリビアでは、カダフィ排除が民主化ではなく、宗教的保守化に

つながる公算の方が大きいように思われます。

(PB生、千葉)




(宮崎正弘のコメント)欧米マスコミの歴史観と政治観でカダフィを総括する危険性。

なるほど、卓抜なご指摘でした。


 


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by toranokodomo | 2011-10-29 12:50 | 世界の歴史