歴史散歩 「石油の世紀と、日本の石油」

宮崎正弘の国際ニュースより:http://www.melma.com/backnumber_45206_4696658/



山下喜斎と石油に関することです。これは、以前宮崎正弘氏のメルマガの読者の声に「ST生、神奈川」氏が江戸時代の日本での石油利用に関して書かれたことがありました。

その内容に補足して以下に記します。



(1)日本書紀に天智7年(西暦668年)新潟地方から「燃ゆる水」「燃ゆる土」が朝廷に献上されたとあります。この「燃ゆる水」は石油、「燃ゆる土」は天然アスファルトのことだと推定されています。おそらく英語でいうseep oilという掘らなくても地面から湧き出て、水溜りにアスファルト状のものとともに原油が溜まっているところが新潟にあったのでしょう。これを江戸時代には「くそうず」つまり臭い水とよんでいました。



(2)慶長13年(1608年)には、越後柄目木村(現在の新潟市秋葉区内)の真柄仁兵衛貞賢という人物が、油田を発見し、慶長18年(1613年)には蘭引(らんびき)で灯油をつくったという記録があります。新発田藩の許可を得て元和元年(1615年)には、油井をうがちこれを沸壺(にいつぼ)と読んだとあります。この油井は明治30年頃まで盛んに石油を出していたそうです。ところで、「蘭引」の語源はアラビア語の「アランビック」だといわれています。アランビックは蒸留酒や錬金術に用いられた蒸留器のことでした。それが江戸時代に日本に伝わって、水を蒸留して薬用に使ったり、酒類の製造や花の抽出液を取り出して化粧水をつくったりするのに用いられました。



(3)嘉永3年(1850年)頃に、新潟の蘭方医山下喜斎が原油から灯油を製造し、薬用として使ったとつたえられています。



(4)西村毅一氏が蘭方医山下喜斎の指導の下石油精製に成功し、嘉永5年(1852年)に柏原近くの半田村の阿部新左衛門氏(西村氏の兄)の土地に石油精製所を造りました。



ところが、この日本における石油利用の歴史は欧米では無視されているようです。欧米で認知されている近代の(古代メソポタミア文明等の石油利用は除く)石油利用は以下のとおりです。



(1)1847年に瀝青という石炭の一種から滲み出た原油から灯油を作る技術が英国で技師ジェイムズ・ヤング氏によって開発され、翌年特許をとり、この技術が米国に伝わりました。(渡辺氏の本では1850年に米国で特許取得とあります)。

灯油をベースにした照明、暖房の鯨油に対する優位性が知られました。



(2)ポーランドでLukasiewicz氏が灯油ランプの発明(1853年)し、精油法を開発し精油所を建設(1954年)しました。これが、西洋では世界初の近代的石油精製所といわれているものです。



(3)ルーマニアのPloestiで世界で初の大規模な石油精製所が米国資本の投資によって、1856年に建造されました。



この論を書き進めるうちにペリーの艦隊の蒸気船であるサスケハナ号の名前のもとになった、サスケハナ川のほとりに住んでいた頃を懐かしく思い出しました。Tristate Areaと呼ばれるニューヨーク州、ペンシルバニア州、オハイオ州の境の地域です。



その時代の日々が今の私の中に生きているように、西村毅一氏が半田村に造った世界初の石油精製所は、有為曲折経てを現在の柏崎製油所となり、Ignacy Lukasiewicz氏がポーランドに造った製油所は大成功し、氏は当時のポーランドで著名な慈善家として知られていました。



ルーマニアに米国資本により造られた製油所は、その後大発展し第二次大戦では、ドイツ軍と連合軍の間で争奪戦が繰り広げられました。19世紀末から20世紀の欧米を動かしてきた主軸は石油を巡るグレートゲームとも言えるように思います。



さらに20世紀後半から21世紀においても、少なくとも当面は世界を動かしている主軸ともいえます。その大きな流れの鍵を開けたのが、謎の蘭方医・山下喜斎であり、そこから生まれた世界初の石油精製工場でした。その技術の存在が長崎出島を通して米国に知られ目ざとい人の眼を日本に向けさせ、さらにポーランドのLukasiewicz氏がそれからヒントを得て自身も石油精製工場を造ったとのかもしれないと思えてきます。



だからこそ、無視せざるを得ないのかもしれません。しかし、証拠を見つけ出すことはたとえ真実であったとしても非常に難しいことでしょう。



ルーマニアでの製油所建設にいたるまでと猛烈な勢いで進んでいったということの背景には、ことの重要性を明確に知っていて、しかも国家と資本を動かすことの出来る人物の存在を考えるのが自然です。当時、英国、米国が鯨油をとるためにそれぞれ年間100万尾とも言われる大量の鯨を捕殺していたことを考えると、鯨油代替物の市場規模の大きさは目ざとい人間には自明のことでした。しかも照明にも暖房にも灯油の方が優れていました。さらに石油から精製した重油は当時蒸気船の遠洋航海に必須であった石炭の代替物ともなります。



石油は単位重量あたりのエネルギーが石炭より高く、液体であるために輸送もより容易です。そう考えるとその人物にとって、Lukasiewicz氏は世界初の精油所の開拓者としてうってつけの人間です。化学の知識を持ち、政治運動に打ち込んで投獄され、大学も卒業できず一種のあぶれ者でした。なにより、英国やフランスのような科学技術、産業技術が進んだ軍事大国ではありませんでした。石油精製技術によりポーランドが軍事的脅威となる心配はありませんでした。ただしそこから事業で大をなし、富を慈善に大盤振る舞いしたことは立派です。



こう当時の状況を分析すると、ポーランドの精油所建設からの2年後ルーマニアで米国資本による石油精製所が造られたのも納得がいきます。その後、1860年代に米国における石油精製産業が、南北戦争終結後、北部資本により脱兎のごとく広がっていったのも頷けます。



油田の多くは敗戦で疲弊した南部にありました。ただし米国初の油田開削は、安政6年(1959年)にドレークがペンシルバニア州タイタスビルで発見し、おこなったものでした。



渡辺氏の日本対シナ前進基地説には、その後起きたことと不整合な点があります。

まず、米国のシナへの投資が活発化したのは、第一次世界大戦終了以降でした。そんな先のことのために嘉永6年(1953年)にペリー提督を派遣する必要があったのでしょうか。



19世紀後半に米国のシナへの麻薬輸出も大きな規模であったとはとても思えません。当時の麻薬の主産地は英国領であり、英国資本との競争に勝てるとはとても思えません。そんな不利な戦いに挑むより、米国(綿花)→英国(綿製品)→英領インド(麻薬)→シナ(銀、茶)→英国経由米国が利益回収というループを円滑に回す方がはるかに米国資本にとっても得だからです。

そして20世紀になって、このループは米国資本にとってさらに有利になりました。



ボーア戦争において大量の英国債券を買い込んだ米国の銀行は英国勝利によって大もうけしただけでなく、米国は純債権国となりドルは世界基軸通貨となりました。



また米国の投資家が英国企業に多額の投資を行なうことにより、よりストレートに言えば、戦争で疲弊した英国の企業株を安値で買いあさることにより、上記のループで英国企業が儲けたお金が米国資本の懐に転がり込むようになりました。



さらに石油が蒸気船の燃料として使われるようになると、海上輸送単価が大きく下がりました。

結果、それ以前には輸送費が高くて米国からヨーロッパへ輸出できなかった小麦が大量に輸出されるようになり、その結果、ウクライナの小麦が競争に負け、領地の小麦生産に経済的基盤を置いていたロシアの貴族が没落しました。これが、ロシア革命成功の一因となりました。



1927年のオイルメージャーによるアクアキャナリー協約で世界市場における石油の市場価格は、油田のある場所に関係なく米国テキサス州での受け渡し価格を基準としてテキサスからの距離に比例した輸送料を上乗せすることに決められました。



つまりジャヴァと取れた石油ですらアジアではヨーロッパより高い価格が設定されました。

このことにより東アジアにおける石油価格は最高になり東アジア諸国民からお金をふんだくる構造ができました。1934年米国連邦準備銀行法改訂により、ドルは金に対して大幅に値下げされて金兌換となりました。その直前の1年間で1万5千トンの金を米国が輸入したことが米国商務省の統計でわかります。つまり米国に金を輸出した連中と米国で金を輸入した連中は大もうけしました。かれらが事前にドルが大幅な安値で金兌換となることを知らずにそんなことをしたとは到底考えられません。だれがそんな大量の金を動かすだけの資金を持っていたのでしょうか。

そんなことの出来る連中は当時世界にあるひとつのグループの人たちだけでした。



ただし、これらは皆結果論に過ぎないともいえます。しかし、渡辺説も自説に都合のよい事実を集めただけだともいえます。ペリー来航に際して動いた人たちの中には、いろいろな意見、利害関係の人たちがいたはずです。そう考えれば渡辺氏の説も私の仮説も玉葱の何枚もある皮の中の特定の何枚目かだけを取り出して、これが一番重要な皮だといっているように思われます。ただ何枚目かが違うだけです。それなら、結果としての歴史により適合する結果論の方がよいと考えます。ペリーを派遣した人物が、もし、当時の世界経済を的確に把握していたら、そして日本での石油精製とその生成物の利用状況を知っていたら、おそらく恐れおののいて、眠れぬ夜をすごしていたでしょう。



この技術が英国の手に落ちたら、そして当時既にseep oilの存在が知られていたルーマニアと中欧地域に英国の支配が行き渡ったら? 日本におけるseep oil資源が新潟だけでなく全国に広がっていて、日本に英邁な君主と、それを支える有能な群臣がいて、あの技術を活用したら?

しかしペリー来航の嘉永6年(1853年)には、Lukasiewicz氏が灯油ランプを実用化し、再来航した安政1年(1854年)には、ポーランドに石油精製所ができました。



また当時、新発田や柏崎近辺にあった、seep oilの油田地帯も規模が小さく、石油産業として大きく育つ見込みがないと見切れていたのではないのでしょうか。それだからこそそれ以降の米国政府の対日通商交渉が熱意のないゆっくりとしたものになったのではないのでしょうか。

結果論から見るとこちらのシナリオが真実らしく思えてきます。



19世紀半ばから現在に至るまでの160年間を鑑みると、そのうねりはまさに石油争奪と利用技術のグレートゲームでした。そして、これからどう生きていくか、また日本という国をどの方向に進めていくかをの回答を歴史から学ぶには、ペリー来航で米国の指導層の意図が何であったかより、歴史のうねりが、そして流れがどうであったかの方がはるかに重大であると考えます。

(ST生、千葉)



(宮崎正弘のコメント)ロックフェラーは石油生産、精製、運搬そして流通を握り、冨を独占した。その結果、アメリカに独占禁止法が生まれ、適用され、ロックフェラー帝国は、原油生産、精製、運輸、流通と分野別に分社化され、鉄道は独立し、そしてほかの石油会社も生まれ、メジャーは競合しあい、やがてOPECができて振り出しに戻り、市場優先主義が生まれ、そこへ投機資金が入り、グレートゲームは姿を変えてしまった。ところで話を飛ばしますが、アメリカの法律を金科玉条のごとくして、独占禁止法の「精神」が重要と実にみみっちぃ分野にも独禁法を適用させる日本の法律業界。その矮小な姿勢、その法律運用と解釈も度し難いと思います。



以上は、宮崎正弘の国際ニュースより:http://www.melma.com/backnumber_45206_4696658/



  というわけで、幕末にペリーが日本へやってきたのは、石油権益確保のため

  だったのかもしれません。さてさて、歴史の真実はどうなんでしょう。

  興味深々のお題ではあります。

  記:とらのこども google_ad_section_end(name=s1) entryBottom


 


 


 


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by toranokodomo | 2013-10-27 14:46 | 世界の歴史  

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