「書くということ」

その昔、釈迦が、ソクラテスが、行基が、法然が、


キリストも、ソクラテスも、著書というものを残していない。


 


もちろん、彼らそれぞれ学問があり、著書を残そうとすれば


わけもなくかけたはずである。


 


しかし、彼らにとってはよく生きることが問題であり、


著書を書くというなどということは、二の次、三の次のことで


あった。


 


たとえば、プラトンやパウロは彼らの弟子であったが、


この弟子たちは、彼らの師の言行を著書に定着せしめよう


とした。もちろん彼らは相当の人物であったが


 


やはり、その師には及ばない。


 


以上、梅原猛詩の「自然と人生」より抜粋です。


 


それでも、書くのは梅原氏は、


 


彼らのように立派な人生を生きられないコンプレックスや、


自己弁明があるからではないかと思う。と言っている。


 


それでも、書くのは、


ブログ主諸氏としては、共感して欲しいという願いがあり、


共感してもらえるのではないかという期待があるのだろう。


 


とらのこどもは、そうなんです。


共感し、共鳴し、出会い、話し、響きあいたいと思ってます。


 


コメント歓迎です!!


大阪で逢いましょう。ホントです!!


 


記:とらのこども


 


 


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by toranokodomo | 2013-10-20 21:11 | コラム  

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