巡り合い/一期一会

人間は「人の間」と書く。



だれかの文章で、「間(あいだ)とは、会うことだ。会うことがないと人になれぬ。」

とあり、印象の強い忘れられない言葉だ。



広辞苑で「間」の意味のなかにも、

「機会、めぐり合い」という意味が載っている。



事実として、「人はめぐり合いによって、人間となる」と思うのだが、

「人間」という漢字の熟語によって、はっきり表されているのは不思議である。



日本語のめぐりあい、出あい、ふれあい、、、、

この「あい」を漢字で表すと「会、合、逢、遭」などの漢字になり、

同音の「愛」に通じるとされる。



何れの出会いも、愛があって初めて出会い・邂逅と呼ぶのが日本語だろうと


思います。(中国の漢字も、同様の意味があるかどうかは分かりません。)



詩人、坂村真民さんの「詩国」より抜粋。



  子を抱いていると  行く末のことが案じられる

  よい人にめぐり合ってくれと おのずから涙がにじんでくる




子どもの成長、結婚、孫の誕生までは大丈夫だと思うが、

おそらく孫たちが成長し、恋を知り、結婚するまでは生きていられるかどうか、、。



一期一会のこころが、石州流の茶の湯の心得「茶湯一会集」に見える。

「そもそも茶の交会(こうえ)は、一期一会といいて、

たとえば幾たび同じ主客と交会するも、今日の会に再びかえらざることを


思えば、実にわれ一世一度の会なり」



先に邂逅(かいこう)・出会いと書いた。

邂逅とは、辞書には「偶然の出会い」とある。本当に偶然だろうか。



遭うべき人に、会うべき時期に邂逅するのではないか。

「偶然」の出会いは、次第に「必然」になっていくのではないだろうか。



人の認識の範囲外のことを偶然と呼んでいるだけで、

むしろ「不思議」と呼ぶべき。



そして、不思議な出会いを喜んで、我々は何をかを為すのである。



不思議とは、人間の発想のまだ届かない領域への、


見えない必然の因果律への、謙虚な科学的態度であり、表現だから。



以上、禅宗臨済宗の故松原泰道先生の著書より





自分の意識・持つもの・運命の元などが因(可能性や運命みたいなもの)

自分の出会った知人、環境、などが縁(太陽の光、恵みの雨、動機みたいなもの)

因縁の結果、自分の為す仕事が果(大きい仕事、芽が出て実る作物など)



因果律で全てが決まっているのではなく、

縁でどんどん変わっていく。勉強で、転勤で、出会いで運命が変わっていく。

まるで、作物の品種改良のように。



今の世の中であるから、チャレンジはいくらでも可能だから、

営業も、技術も、事務も、管理も、都会も、田舎も、外国も、試せばよいと思う。



必ずご縁はあるものだ。そしてそれは、偶然ではない。

ですよね☆


 


記:とらのこども@再掲です。


 


 


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by toranokodomo | 2013-05-13 17:33 | コラム  

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