私の信じている日本・超古代史

日本の縄文時代が始まったのは、今から1万5千年前と見られている。BC130世紀のことになる。そこから縄文土器を使用したことになる。日本でのペトログラフ使用は今から6500前のことであり、BC45世紀である。そのペトロクラフは世界の各地で見つかっている。それと共に、日本の縄文土器も各地から見つかっている。北米、ハワイやペルーからも日本の縄文土器が見つかる。このため、この当時、太平洋を横断して行き来していたことが分かるのである。



ペトログラフは、メソポタミアのシュメール文字の古形であり、日本から出た文字がメソポタミアに行ったことになる。メソポタミア文明ができたのはBC30世紀である。このシュメール文字がフェニキア文字になり、ローマ字に変化して欧州のアーリア民族に伝わり、今の英語などになっている。また、インドのサンスクリット文字もこのペトログラフによく似ている。アーリア民族全体にアジアの草原で伝えられたようにも感じる。しかし、この日本ではペトログラフは使用していない。ここに大きな疑問がある。



謎の神代文字として、数種類の文字があるが、どうも当時から神との交信に使って、一般的ではなかったようである。そして、当然のごとく、この文字は現在でも使用されていない。しかし、どれもローマ字のような構成になっているのが特徴であり、そのため40年以前には、後世に創作したと思われていたが、そうではないことがペトログラフの発見で分かったのである。この神代文字で書かれた歴史書を見ると、古事記や日本書記とは違う日本の古代史が見える。そして、その記述を民俗学も支援している。



古代の日本はバラバラであったことや、そのバラバラな民族がアジア大陸と黒曜石などの交易していたことが判明している。民族の交流もあり、日本はいろいろな異民族がいたことが分かる。今のニューヨークのような様相を示していたように感じる。日本から見ると、新羅や百済から来るように見えるが渡来人の最終経由地であったと見る。



前2世紀(中国は秦崩壊後の前漢王朝時代)から弥生時代が始まるが、縄文人と弥生人は住み分けがされていて戦争になっていない。縄文人でも畑があったが、労働をしないでも収穫できたのに、後から来た弥生人は洪水がある低地で、しかも朝から晩まで労働している姿を縄文人はバカにしていたようだ。



縄文時代の日本の人口は最大30万人程度であり、1つの集落は500人が最大で、それより小さい。阿蘇山の大爆発などで西日本には1万人以下しか住んでいない。95%以上が東日本に住んでいた。



弥生人とは、夏王朝の難民や漢王国の華僑や阿蘇山の大爆発で避難した縄文人が中国や朝鮮で混血となって帰ってきた人たちのことで、彼らは、主に西日本に住んで、砂金などを取って輸出し、田畑で麦や米を耕作していた。この弥生人は基本的に漢字文化圏からの人たちであり、歴史が漢字で書かれることになる。



融和政策でアマテラスという太陽神として縄文神を取り入れる。初期の移住者は、道教の古形である鬼道派であり、祈祷、呪い、祝詞、お告げなどを持っている。3世紀の邪馬台国の卑弥呼は、道教の巫女で「鬼道に事え能く衆を惑わした。」との記述がある。この卑弥呼のような信仰形式は縄文人にはなかった。



次に4世紀に秦氏が新羅から道教の神道派を持ってくる。老子、荘子、易経や、どうも秦氏は仏教、景教の影響も受け、思想体系を確立したようだ。そして、その前の巫はそのまま継続した道教を神道として導入して、神仏融合の八幡神社を宇佐八幡として創設した。



これが縄文人が信仰していたアミニズムの宗教に付加されて、今のような神社になったようだ。秦氏一族・2万人以上が移住してきたと想定されている。鉄の製造技術や法隆寺など建築技術も持っていた。



秦氏はその後、その技術力を買われて、今の京都、山城に呼ばれたが、そこでは国家の要請で氏寺・太秦寺を作って、ここでは景教の要素を出している。八幡神社としては石清水八幡宮のほうが宇佐八幡宮より有名になるが、今全国に8万社もある八幡神社に成長している。



漢東氏、蘇我氏なども百済、新羅から移住してきたが、倭の大乱の後は平和を取り戻す。これは日本が豊かで全員が暮らしていけるからで、その時の日本の人口は200万人であるが、砂金が取れたことが重要であったようだ。鉄は当初、任那からの輸入であったが、これも秦氏の日本移住でできるようになる。



しかし、この縄文と弥生が繋がっていないことに疑問を持ちませんか。



大和朝廷に果たした秦氏の存在が大きいが、日本に来た時期が遅かったことで、権力機構に入れなかったように思う。しかし、この秦氏がどこから来たかにより、見方が大きく変わる。



ペトロ文字は西日本からしか発見されていない。これはBC40世紀の阿蘇山の大爆発で、西日本が住めなくなり、ここに住んでいた日本人がどこかに移住したことを示している。大部分は朝鮮半島や中国などの日本周辺に住んだのだが、一部の縄文人は集団で行動して、それより遠くに行ったことになる。この人たちがメソポタミアまで行く着くことに成る。BC30世紀にメソポタミア文明を作り、この民族全体がBC25世紀、エジプトにその技術力を買われて、その捕虜となる。



許されて、神との契約を誓うことになり、ユダヤ人と認識することになる。ユダヤ人はアシケナージとスファラディに割れている。このうち、アシケナージが典型的なユダヤ人とみなすと、それは違う。周辺イスラム教徒のセム族と同じスファラディこそが、本来のユダヤ人である。



ユダヤ人の11部族の内10部族が、イスラエル王国を作るが、BC6世紀、アッシリアに負けてバビロンに捕囚される。しかし、そのアッシリアも負け、捕虜は許されてユダヤの地に戻らずに、日本に向かうことになる。BC3世紀に秦を作り、しかし20年足らずで滅びる。秦氏一族2万人は朝鮮に向かい、そして、日本に4世紀に帰還したのだと見ている。



1584.縄文時代の再考

http://www.asahi-net.or.jp/~vb7y-td/k6/160403.htm

415-2.日本の道教について

http://www.asahi-net.or.jp/~vb7y-td/kak3/1301202.htm

299-1.古田史観など

http://www.asahi-net.or.jp/~vb7y-td/kak2/1209251.htm



以上、国際戦略コラム「とてつもない日本の歴史」より転載。





  日本・ユダヤ同祖説があるが、日本人がユダヤ人となった後、再び日本に戻ったという

  説は初めて聞いた。興奮する古代史説である。秦の始皇帝も日本人だったのだから。

  記:とらのこども
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by toranokodomo | 2011-09-24 09:30 | 日本の歴史  

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